山神GGのブログ+α

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板屋林道 (仮)板屋隧道③ 虻谷林道

からの続きです

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では、(仮)板屋隧道の先はどうなっていたのか?

全国Q地図による

1961年(昭和36年)~1969年(昭和44年)頃の

航空写真では・・・

=板屋林道

=北在家中津川林道(画像の時代には存在せず)

=(仮)出雲谷川林道

オレンジ=(仮)出雲谷川林道の消えてしまった部分

 

青い線で隧道先にも林道が続いてます

現在↑の隧道出口から見た風景がこちら↓

右に車の見える方向が北在家(きたざいけ)中津川林道が出来てから

造られたと思われる作業道(廃道に近い道)

まっすぐ向かう道は元・板屋林道 兼 新たに造られた作業道ともなっている

ここを北在家中津川林道と並行するように進みますと

途中で作業道は左に折れてジ・エンド

しかし板屋林道はそこから廃の雰囲気を残しつつ、まだその先に続いてます

右手に大きくカーブした北在家中津川林道が間近に段々と迫ってくるのですが

逆に目の前には虻谷(あぶたに)林道が見えてくるのです

=北在家中津川林道

=虻谷林道

拡大図↓

=板屋林道

オレンジ=作業道

A=コンクリートの土台

↑あと少しで虻谷林道に合流だという場所にはコンクリート製の土台

これは間違いなくここが道(板屋林道)であった証拠

もう目の前に虻谷林道だ!と言う場所で

忽然と板屋林道はぶった切られるのでした

これを下から見上げますと

虻谷林道から2~3メートルほどの高さの位置で

板屋林道はものの見事に消えてしまっているのでした

これは想像するに

北在家中津川林道を新設した際

それまであった板屋林道を改修して利用することは止め

(今までの狭い(仮)板屋隧道を使うことは車が通行不能である)

ならば新たにトンネルを掘るか?とも考えたが

予算がかかるので、あえて遠回りにはなるが

(仮)板屋隧道を迂回するルートを選んだのだと思われます

そのため板屋林道は存在をなくし

(仮)板屋隧道とともに廃道となったものではないか?と考えるのでした

 

で、ここで疑問

この隧道を含むこの板屋林道は何のための道だったのか?

普通に考えれば、虻谷川奥にある木を切って

それを運ぶための林道ではなかったのか?と思われます

まだ車が発達していなかった時期に造られた道

多分に牛や馬で切り取った材木を運んでいたのではなかろうか?

結いの里・椋川 - 昭和16年くらいに撮影された写真。 ・積み荷の ...

人、小型機械、牛、ロバで木を運ぶ|加藤純 京津畑地域おこし協力隊

亀山市史 民俗編

https://kameyamarekihaku.jp/sisi/MinzokuHP/jirei/bunrui5/data5-1/index5_1_2_2.htm

2 家畜による運搬    2-(2) 牛車

 牛を運搬の動力とした牛車は、亀山で最初に使用された時期についての記録は残っていないが、農耕用としての牛は江戸時代には使われており、車なども曳いていたと思われる。広く運搬用に牛車が使用されるのは、地方に大八車や荷車が普及し、道路が整備された明治時代以降である。
 市域では牛に荷車を曳かせる時は、大八車や運搬専用の四輪の荷車であったが、太平洋戦争後では農作業の往復にリヤカーを曳かせていた光景も見られた。ところが、トラックなどの輸送の手段の発達や農業の機械化によって、農業用の牛の飼育が三十年代から四十年代にかけて次第に少なくなり、農家では五十年代になるとほとんど農耕用の飼育をしなくなった。一部肉牛の飼育に変わっていったが、現在では一般の農家で牛の飼育を見かけることが無くなった。
 牛車で運ぶ物資は、昭和二十年代では市域の産物である茶・木材・柿渋・繭・桑の葉などであり、繭をドーマンカゴに入れて亀山製糸へ持って行った事例もみられた。またムラからマチへ、牛車で割木や柴を売りに行き、帰りにマチで下肥をもらって、ダゴケに入れて持ち帰っている(写真 1)。また、結婚式の式当日、嫁入り道具類を牛車(荷車)につけて運んだ話も幾つか残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

亀山市史民俗 交通・交易

牛や馬が通れるだけの隧道だったからこそ

(仮)板屋隧道は狭かったのではないのでしょうか?

真相は不明ですが、勝手に推測してみました

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