すでにみなさんご存じだと思われるが
今回はクイックさんとのコラボ記事であります
今回コラボとなったいきさつは下記の通り
以前記事にした
【廃橋】旧・越川大橋のコメントにて
クイックさんにこの近くにある沈下橋を御存じですか?と
問い合わせたところ
もしかしてそれって流れ橋のこと?と答えられ
えっ?流れ橋???
わたくし恥ずかしながらこの見つけた橋は沈下橋だと思い込んでいたのです
クイックさんからのご指摘を受け
初めてこの橋が流れ橋だと知ったのでした(←大馬鹿野郎とも言うw)
河川の増水時に橋桁(はしげた)が橋脚から分離して流出する構造を持つ橋である。
流れに逆らわず自動的に橋桁が外れて流されることで、
橋梁が流木や土石等の流下物を堰き止めることで生じる
川の氾濫を起こしにくくすることができる。
by ウィキペディア




わたくしがこの橋を初めて知ったのはこちらのサイト
こちらのサイト主さんが大和(やまと)街道を訪ねてみえるのですが
その道中で

こんな沈下橋がありますと報告されていたのです
おおお!これはどこなんだ?とわたくし食らいつきますw
で、ご親切にも地図が記事内に添えてあったのです

この地図から詳しい場所を特定
[http://:title]
[http://:title]

で、速攻ここを訪ねてみたのでした
事前にこの橋を調べてみたところ、誰も記事にはしていない
(注 加太の沈下橋で検索したら誰もいなかったのだが
加太の流れ橋で検索すればいくつかヒットしたのを後で知ったのでした)
これは大発見だ!一番乗りだ!と喜んだのですが
実はクイックさんは今から3年前にここに訪れてみえて
ただ単に今日まで記事にしていなかっただけ
何て憎たらしい人なんでしょうw
わたくしをぬか喜びさせておいて、一瞬で奈落の底に落としこんだのでしたw
てなわけで今回コラボ記事として、同時期に記事にしようと相成ったのでした
もちろん相方は専門家ですから
わたくしは素人目線での記事書かせていただきます
余談だがすでに2024年に
あのよごれんさんがXにて
すでにこの流れ橋を紹介してみえたのでした
三重県亀山市にある流れ橋です。洪水によって橋が壊れないように、あえて橋桁が流されるように設計されてます。それもあって重量制限が厳しいのかと pic.twitter.com/jjNasUISiS
— よごれん (@yogoren) 2024年10月8日
さてさて先回の
↑この記事をお読みになった方はお気づきになったかも知れないが
旧・国道25号 猪之元(いのもと)橋から見た
下流方向の画像


↑この画像にしっかりと今回の流れ橋が写っていたのです

西側よりこの橋に向かってみました

↑こちらの橋への入り口の角に大和街道の案内板があります
[http://:title]

加太峠を越えて奈良へ続く街道である。
都が奈良盆地にあるときは、
伊賀を通って伊勢へ出る加太峠越えが東海道であった。
しかし、都が平安京へ遷され、仁和2年(886) 阿須波(あすは)道が開かれると、
近江(おうみ)から鈴鹿峠を越える経路が東海道の本筋となった。
壬申(じんしん)の乱(672) で大海人皇子(おおあまのみこ)が通過したのが
この街道とされ、
また、『源平盛衰記』には 元暦元年(1184)、源義経が木曽義仲追討にあたり
「加太山」を越えたと記し、
天正10年(1582)6月、本能寺の変を堺で知った徳川家康が身の危険を感じ、
急遽 本国の三河へ引き返した時も 加太峠を越えたとされている。
東は関宿へ1里半、西は柘植(つげ)宿へ2里8丁を継ぎ送った。
本陣は加太板屋に、高札場(こうさつば)・問屋場は加太市場にあり、
旅籠(はたご)は4~5軒あったとされる。
大和街道の往時の情景は、路傍の石仏に その名残が見られるだけとなってしまったが、
ここ加太梶ヶ坂峠付近だけは 旧道の様子がよく残り その面影を留めている。

ここより東に加太川方向に向かいますと




後編に続く・・・